50周年企画「同窓生からのメッセージ~さらなる未来の架け橋へ~」第1回

シドニー日本人学校(SJIS)は、この2018年5月に開校49周年を迎え、2019年に50周年を迎えます。

その半世紀の長い歴史の中で、立役者として学校の歴史を築き上げてきた「卒業生・同窓生たち」

これからの更なる半世紀、SJISの子どもたちはどこに向かっていくのか?未来に羽ばたく子どもたちのために「同窓生からのメッセージ~さらなる未来の架け橋へ~」を50周年に向けて開始します!

記念すべき1人目は、博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダーとして、現代の若者研究の第一人者として活躍する原田曜平氏

原田さん(卒業生なので“さん”と呼ばせて頂きます!)は、日テレ朝の情報番組ZIP!の番組プロデューサー及び金曜レギュラーとしても活躍中。出版された著書も「さとり世代盗んだバイクで走り出さない若者たち」、「ヤンキー経済」など多数。現在、昨年12月に発行されら「それ、なんで流行ってるの?隠れたニーズを見つけるインサイト思考」が好評。ヒット商品を掘り下げながら、ヒットの方程式を詳しく紹介している。

   

原田さんは、この3月のスクールホリデー中に、シドニー出張の合間を縫ってテリーヒルズの学校キャンパスまで足を運んでくださいました。学校への訪問は、なんと中学2年時にシドニーから日本に戻って以来27年ぶり!当日は、学校は休暇中だったものの、学校で開催していたバケーションケアに参加していた生徒・児童たちと交流する事ができました。

-原田さんが在籍していた当時のSJISは、どのような様子でしたか?

1989年、小学6年生の9月に、商社に勤める父親の転勤でシドニーに来ました。日本が大好きだったのでシドニーには行きたくなかったのですが、中学2年の10月までの3年間で今でも交流している友人にも恵まれ、シドニーは第二の故郷だと思っています。現在でも同窓会を開催したり、ラインで連絡を取ったりしています。当時は国際学級・日本人学級併せて500人程度在籍していました。国際学級の友だちの日本語が大変流暢で、僕ら日本人学級のクラスメイトの英語はなかなか伸びなかったです。「僕らの英語が伸びないのは、お前らの日本語がうますぎるからだ」なんて言いあってました(笑)。

1990年 原田さん中学1年生当時。塀の上、左から三番目。

どちらにお住まいになられていましたか?

モスマンとノースブリッジでした。日本のバブル絶頂期でしたので、日本人の駐在員は豪華な一軒家に住んでいました。日本食材屋もありましたよ。賞味期限が切れたものもありましたが、気にせず食べていました(笑)。

‐高級住宅街のモスマンやノースブリッジは、現在一軒家だと手の届かない値段の物件ばかりで、多くの駐在員は、アパート暮らしが主流なんですよ。

そのようですね。今回はシドニーにトレンド調査で来ているのですが、その一環でシドニーの若者の住居も数軒訪問しました。不動産をはじめ、物価が本当に高いですね。ラーメンは一杯約1500円もして驚きました。僕が住んでいた時代は日本のバブル時代で日本人もたくさん住んでいましたが、今は日本人が少数移民となり、シドニーのシティは、中国系移民やアジア系移民で溢れていました。

1990年 原田さんのご両親と。

SJIS時代、どのように毎日を過ごされていましたか?

当時はイエローソックスという日系の野球チームがシドニーにありました。もちろんユニフォームは、黄色い靴下です!オーストラリア人の審判が野球のルールを分かっていなかったという苦い思い出もありますが、オーストラリアのチームと試合もしたり良い経験となりました。当時、既に引退して解説者になられた王貞治さんがシドニーに来られた時があって、日系コミュニティが盛り上がった時がありました。もちろん、私も色紙を持参し一目お会いしようと足を運んだのですが、たまたまあった色紙が、当時活躍されていた清原和博選手のサインが書いてあった色紙しかなくて、その色紙の裏で王さんからサインを貰おうと差し出したところ「これ、清原君のサインが裏にあるね」と言われた事を覚えています(笑)。

中学生になり、日本へ帰ってからの受験を控えていたので、塾に通い始めました。その後スポーツをしなくなりました。今思うと、もう少しオーストラリアらしい経験をすべきだったと思います。また、バスや車の移動が多かったので大変運動不足になり、日本に帰省した後、同級生と運動能力の差を感じました。

‐思い出に残っている学校行事はありますか?

当時からスクールフェイトがありました。日系企業が最新の電化製品を展示して、それを目玉に来る人々が沢山いました。ずらっと並ぶ日本の最新電化製品を見てオーストラリア人が驚いていたのを覚えています。

1989年 日本人学級小学部6年生卒業時の原田さん。最上列左から三番目。

 

-約27年ぶりに訪問して学校の印象はどうですか?

学校があるテリーヒルズまでの道のりは、良い意味で変わっていなく(笑)、昔ながらの自然が残っていて安心しました。子どもたちが、ゴムボールを手でヒットする遊び、あれ何でしたっけ?そう!ハンドボール。本日も遊んでいる子を見かけて懐かしく思いました。当時は、日本人学級には駐在員家庭が、国際学級には欧米系のオーストラリア人が多く在籍していましたが、今は、駐在員家庭よりも永住家庭の比率が高くなり、アジア系移民も多くなっていて驚きました。英語もみんな上手ですね。

  

プレゼンテーションの様子

-そうですね。時代の流れを感じますね。本日は、子どもたちにプレゼンテーションまでご準備頂き、貴重なお話をありがとうございました。

小学部の児童が多かったので、仕事の紹介の話は難しかったと思いますが、みんな楽しそうに聞いてくれました。それから、日本のTVもこちらで見えるので、ZIP!を見たことのある子がいたのは驚きましたね!中学部の生徒が、熱心に終わった後に話を聞きにきてくれて嬉しかったです。

 -最後に、シドニー日本人学校の子どもたちにメッセージをお願いします!

これからの日本は、経済成長のためには移民受け入れや多文化共生をどんどん進めていかなくてはならない。アジアが台頭してきている今、「アジア的な感覚」を持つことと、それを「欧米人に伝えること」の両方が大切な時代になります。アジアの文化と欧米文化が融合し、移民が一緒に生活するオーストラリアはまさにそれを体現している場所。この特別な環境は、世界を見ても珍しい。この経験をぜひ将来に活かして欲しいです。

移民国家で生活する君たちこそ将来の主役です!

シドニーは、間違いなく世界のトレンド発信地になりつつある。そのアンテナを活かして、将来日本とオーストラリアを結ぶ架け橋になってほしいと願っています。

子どもたちとハイタッチをする原田さん。

 

【インタビュー後記】

屈託のない笑顔でとても人懐っこい印象の原田さん。学校に到着するなり、「食べる時間がなく、何か食べる場所はありますか?」ということでしたので、タックショップのミートパイとツイストボロネーゼを食べていただく流れになったのですが、気さくな笑顔で楽しくお話ししながら食べてくださり、貴重な昔の思い出を語ってくださいました。プレゼンテーションでは、子どもたちから、思わずくすっと笑ってしまう質問が出る場面もあったのですが、面白く笑いを交えて返答する姿は、さすがTVのプレゼンターだなと感心しました。

これからもご活躍楽しみにしています。

取材・編集 シドニー日本人学校 マーケティング担当 ライアン美代子

 

 

【リンク】

原田曜平 オフィシャルブログ by Amebaフェイスブック

 

 

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